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中曽根康弘さんと三宅久之(その2)


松原会


中曽根さんとの関係は、新聞記者OBが主催する「中曽根さんを囲む会(松原会)」に誘われたことを契機に一層の親交を深めることとなります。


写真は前列右から宮崎吉政さん、中曽根康弘さん、渡邉恒雄さん、飯島清さん、後列は右から俵孝太郎さん、屋山太郎さん、三宅久之です。


当時は、まだ中曽根さんが総理大臣になる前のこと。メディアでしきりに叫ばれていた「三角大福中」と言われた総理候補の中で、大平首相死去後(当時は伊東正義官房長官が首相代理)に鈴木善幸内閣が誕生、初当選以来「総理大臣になる」と宣言していた中曽根さんの線は薄くなったとささやかれます。


組閣では、非主流と言われた行政管理庁長官というポストに。しかし、父は中曽根さんを「決して腐ることなく、このポストを最大限に活かした。経団連の土光敏夫会長(メザシの朝食に代表される質素倹約をモットーにした方)を起用した卓越した政治手腕だった」と評しています。我が家でも土光家を見習い、食卓にメザシが並ぶようになりました。


当時は、国鉄、電電公社、専売公社他をどうするかという議論(三公社五現業)が盛んな時代でした。そんな中、政治家・中曽根康弘さんが主導し、JRグループ、NTT、JTという民営化の流れを日本に定着させる道筋を作っていかれました。


「松原会」が日本の外交を動かしていた!?そんなエピソードをご紹介します。

中曽根さんがメンバーに「私が総理大臣になったら、外交はどこから手をつけたらいいか」と問いかけたことがありました。ご自身は「北方領土問題」を解決すべきではないか、と仰せになったそうです。1956年に派閥のボス・河野一郎さんが、当時の鳩山首相と一緒にクレムリンに乗り込み日ソ共同宣言にこぎつけたものの、棚上げになっていることに忸怩たる思いがあったのでは、というのが父のお見立てでした。


この問いかけに対して評論家の戸川猪佐武さんが次のように語ります。

「北方領土問題は、相手がソ連では一筋縄でいかない。それより危惧しているのは韓国で、日本語教育を受けたはずの年寄りが日本語を絶対に話そうとしない。すさまじい反日感情が渦巻いているようだが、(当時の)日本人の誰もが気が付いていない」メモ魔の中曽根さんは、その時に限って手帳をクロークに預けていました。すると、おもむろに手元にあった割りばしの箸袋を広げて、その話をボールペンでメモしだしたそうです。


それからほどなくして、中曽根さんはご自身で宣言されたとおり内閣総理大臣に上り詰めます。(1982年・昭和57年11月)直後にブレーンであった伊藤忠の瀬島龍三さん(山崎豊子さんの小説「不毛地帯」の主人公)を特使として全斗煥大統領へ派遣します。翌年、自ら渡韓して「日韓新時代」と言われる動きを作り出します。そして、何よりも喫緊の課題は対米関係。前首相の「日米同盟は軍事同盟でない」という発言以来、冷え込んでいた関係を修復させることでした。防衛費増額を手土産にレーガン大統領と会談したのが1983年1月、この年の11月には後世に「ロンヤス関係」とその名を残すこととなる日米首脳会談が奥多摩・日の出山荘で行われます。


最後に中曽根さんが総理大臣に就任された時の話をご紹介します。私の実家、祐天寺駅近くに「スイング(今はありません)」というケーキ屋さんがありました。母の話によりますと、その日、父の指示でケーキを大量発注、そのまま中曽根さんの私邸へ運び込まれたそうです。

それは議員会館の中曽根宅で飲み明かした際にお世話になった蔦子夫人への気遣い。記者に囲まれたり、不意の来客に備えるために奔走されるのは、内助の功たる夫人の役目。差し入れするには、用意が簡単で気の利いた洋菓子が最適だと、政治記者を長く続けた父の経験則から導き出されたものでした。そして、一番最初に手紙をくれた中曽根さんに対しての恩返しだったことは言うまでもありません。


更に毎年5月27日、父は中曽根さんの誕生会で司会を務めていました。還暦から米寿の年まで30年の長きにわたって続きました。それはひとえに感謝のしるし、家では決して見せない顔でしたが、三宅久之はマメで義理堅い人だったようです。


父・三宅久之は58年にわたり政治家を見続けてきました。政治家の存在感に「風圧を感じた」と著書に記していたのは河野一郎さん、そして中曽根康弘さんです。大勲位・中曽根康弘さんには三宅の愚息である私自身も大変お世話になりました。


改めてご冥福をお祈り申し上げます。

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