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執筆者の写真三宅まこと

中曽根康弘さんと三宅久之(その1)

大勲位・中曽根康弘先生が令和元年11月29日ご逝去されました。亡き父、三宅久之と中曽根先生にまつわるエピソードを、拙書「愛妻 納税 墓参り 家族から見た三宅久之回想録(イーストプレス社刊)」から抜粋してご紹介させていただきます。


中曽根さんからいただいた手紙


1976年、毎日新聞社を退社した直後、三宅久之は「仕事がなくて困っている」という状況にありました。


“男はヤセ我慢が肝心だ”この教訓は河野一郎さんから学びました。浮沈の激しい河野さんが岸信介氏と仲違いして無役になっていた時のこと。河野氏は「人生不遇の時もある。人間の価値はその時、泰然としていられるかどうかで決まる」といい、外目には決して落ち込んでいる様子を見せなかったそうです。評論家駆け出しの父にとって、何度となくわが身にこの教訓を言い聞かせていたといいます。


とはいいながらも、収入面で先行きが見えない現実に心細かったと思います。

恥ずかしさのあまり帽子をかぶり、サングラスをかけて変装して、失業保険給付のため職安を訪れたこともありました。中学に上がる前で育ち盛りだった私のおかずも「かまぼこ3切れ」だけになりました。母が自宅を改装して下宿屋をやろうと、仰天プランをぶちあげていたのもこの頃でした。


そんなときに、当時、読売新聞の渡邊恒雄さんが記者OBら、昔の仲間を集めて激励会を催してくださいました。父の窮状に憐れみを感じられたのか、「政治家に手紙でも出さないと仕事が来ないよ」と諭されます。さっそく知人や旧知の政治家に「かくかくしかじかで評論家になりました」と挨拶状を送るのですが、新聞社の看板がなくなったことで急に態度が冷淡になった政治家もいたそうです。


そんな中、真っ先にご返信をくださったのが、中曽根康弘さんです。

手紙には「貴兄のことだから立派にやっていけることと確信していますが、もしお困りのことがあったらなんなりとお申し出ください、犬馬の労をいといませんから」という趣旨のことが書いてありました。


河野派だった中曽根さんとは、父が河野番になってまもない、まだ20代のころから旧知の仲でした。まだ手狭であった議員宿舎におじゃましてコップ酒を飲んだ時には蔦子夫人に大変お世話になったそうです。


また、中曽根さんを介した酒の席では、若き石原慎太郎さんとのバトルもありました。

まだ、芥川賞をとって2~3年の石原慎太郎さんと3人でお酒を飲んだ時のこと、若干年長の父が気を遣って先に名刺を出します。すると石原さんから「新聞記者ですか。あんな虚業についていて、日々苦痛じゃないですか」とカウンターパンチ。

父も若かったので「アソコをおっ立てて障子を破った(※「太陽の季節」から引用したと思われます)くらいのことでエラそうなことを言うな」と応酬。その場をとりなしたのは、年長の中曽根さんでした。


中曽根さんとはその後、河野派と袂を分かち(春秋会分裂)、しばらく疎遠となります。その当時はそんなに親しい間柄ではなかったということです。


それにもかかわらず、この温かいお手紙が、父のどれほど心の救いとなったか、はかり知れるものではありません。


(その2へ続く)


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